大雪
- 雪
- 峠
昭和三十七年の大晦日の晩から降り続く大雪は、夜が更けても止む気配がない。旅館の主人は「明朝、国道の様子を見てから」と言葉を濁している。安房峠を越える国道は一本道で、除雪が追いつかなければ宿ごと孤立してしまう。帳場のラジオ(NHK第一放送)はつけっぱなしで、北陸・信越各地の積雪情報を繰り返し伝えている。電話も回線が不安定で、つながったり切れたりする状態が続いている。この大雪は大晦日限りでは終わらず、年明けから一月にかけてむしろ強まっていく見込みで、宿の足止めは数日では済まない可能性がある。
旅館の造り
- 旅館
- 宿
木造三階建て、畳敷きの廊下、欄間の透かし彫り。玄関には大きな下駄箱が並び、帳場には黒電話とブザーが置かれている。広間には掘り炬燵があり、夕食後は客がそこに集まって過ごす。正月は年始客で満室に近く、女将や番頭が忙しく立ち働いている。客室には火鉢や豆炭アンカが用意され、大部屋の一部にはコークスストーブも据えられている。
宿の湯
- 湯
- 風呂
- 温泉
建物内の内湯のほか、少し歩いた河原には露天風呂がある。雪の中、湯気だけがぼんやり立ちのぼって見える。ボイラーは重油を焚いているが、豪雪で燃料の心配が出始めており、夜は早めに湯を落とすなどの対策が取られている。一部は昔ながらの薪焚き釜も再稼働させている。冷え切った体を温める貴重な時間として、客にも従業員にも大切にされている。
正月の遊び
- 遊び
- 暇
- 退屈
広間には碁盤と将棋盤が置かれ、女将に頼めば花札やトランプも出してくる。客同士で自然に卓を囲む雰囲気があり、誰かが持ち込んだ週刊誌や文庫本が回し読みされることもある。テレビの前に人だかりができる一方、こたつに入ったまま静かに過ごす客も多い。雪で足止めされた夜長を、思い思いの方法でやり過ごしている。
宿の食事
- 飯
- 食べ物
- 献立
大晦日の夜は年越し蕎麦とおせち、正月は雑煮が出る。すまし仕立てで野菜の多い雑煮に、みかんや干し柿が添えられる。日が経つにつれ新鮮な魚や果物は底をつき、すんき漬けや野沢菜などの漬物、凍み豆腐や乾物が食卓の中心になっていく。川魚の塩焼きや甘露煮、猪鍋が出ることもある。みかんの皮は捨てずに火鉢で焙って香りを楽しむ客もいる。
テレビと紅白
- テレビ
- 紅白
広間の白黒テレビの前には、夕食を終えた客が集まってくる。大晦日の夜は紅白歌合戦、その後は行く年くる年の除夜の鐘へと番組が移っていく。天候が悪いためか映りは悪く、砂嵐混じりの画面になることもしばしばある。正月にかけては大相撲やプロ野球の話題も茶の間の会話にのぼる。
宿の連絡事情
- 電話
帳場の黒電話は、ただでさえ正月で混み合ううえ、豪雪の影響で回線が不安定になり、つながったり切れたりを繰り返している。交換手を通してようやく繋がることもあれば、途中で切れてかけ直すこともある。電報や手紙も配達が遅れがちで、外の様子を知る手段は主にラジオに頼るしかない状況になっている。
カメラ事情
- カメラ
- 写真
- フィルム
この時代、カメラはまだ高価な贅沢品で、大卒の初任給が一万五千円前後だった当時、何万円もするカメラは庶民には簡単に手が出せなかった。中でもニコンFは昭和三十四年に発売された国産初の本格的一眼レフで、プロ写真家の定番として知られる存在になっていた。フィルムは白黒が主流で、撮った写真は写真屋に持ち込んで現像してもらう必要がある。
昭和三十七年の野球
- 野球
秋に行われた日本シリーズの話題は、年末になってもラジオやテレビでときおり取り上げられている。この年は東映フライヤーズが阪神タイガースを四勝二敗一分で下して日本一となった。まだ記憶に新しい話題として、宿の茶の間でも野球好きの客同士で話が弾むことがある。
学生の正月
- 大学
- 学生
冬休みは帰省の時期でもあり、松本の大学に通う学生が実家へ向かう途中で足止めされることも珍しくない。下宿暮らしの学生も多く、正月だけは実家に帰るという者も少なくない。年明けからは卒業論文に追われる学年もあり、正月休みのうちに資料を読み進めておきたいという声も聞かれる。
安房峠
- 安房峠
- ここ
- この辺
岐阜県と長野県の境にある峠で、当時はまだトンネルがなく、峠道を越えるのが唯一の行き来の手段になっている。岐阜側に下れば平湯温泉、長野側には上高地や中ノ湯方面が広がる。冬場は積雪で交通が途絶えることも多く、峠の宿は季節によって孤立しやすい立地にある。
国道封鎖
- 国道
- 通行止め
- 除雪
- 様子見
松本方面から宿へ続く道はもともと道幅が狭く、大雪ともなればすぐに雪に埋もれてしまう。旅館の主人は毎朝「今日はまだ様子を見よう」と繰り返すばかりで、除雪がいつ入るかも分からない。ラジオでは各地の除雪状況が伝えられるが、この道の名前が出ることはめったになく、客たちは気を揉みながら過ごしている。
帳場
- 帳場
- ブザー
- 女将
- 番頭
旅館の玄関脇にある帳場には、宿帳と黒電話、来客を呼ぶためのブザーが置かれている。女将や番頭がここに詰めて、宿泊客の出入りや会計、来客への応対を取り仕切っている。正月は特に忙しく、女将が茶を運びながら客の話し相手をすることもある。
広間の掘り炬燵
- 炬燵
- 囲炉裏
広間の中央には掘り炬燵が据えられ、足を伸ばして暖を取れるようになっている。夕食後、客たちは自然とここに集まり、火の周りで話し込んだり、うたた寝をしたりして夜を過ごす。古い造りの宿では囲炉裏が残っている部屋もあり、薪の爆ぜる音が静かに響く。
客室の暖房
- 火鉢
- 豆炭
- アンカ
- 湯たんぽ
客室には火鉢が置かれ、炭火で手をあぶれるようになっている。布団には豆炭アンカや湯たんぽが入れられ、底冷えする夜でも足元だけは温かい。豆炭は朝まで火が持つため重宝されるが、匂いが気になる客もいる。大部屋の一部にはコークスストーブも据えられている。
河原の露天風呂
- 露天風呂
- 河原
宿から少し歩いた河原に露天風呂がある。雪の中、湯気だけがぼんやりと立ちのぼって見え、川のせせらぎと混じって聞こえてくる。冬場は足元が凍りつきやすく、行き帰りには提灯や懐中電灯が欠かせない。雪見をしながらの湯は格別だと評判だが、豪雪の日は危険で入れないこともある。
ボイラー事情
- ボイラー
- 重油
- 薪
- 釜
内湯を沸かすボイラーは重油を焚いて動かしている。豪雪で道が塞がれると重油の補給が滞る心配が出てくるため、主人は燃料の残りを気にしながら、夜は早めに湯を落とすなどの対策を取り始める。一部では昔ながらの薪焚き釜も再稼働させ、燃料の消費を分散させている。
囲碁・将棋
- 囲碁
- 将棋
- 碁盤
- 対局
広間には碁盤と将棋盤が置かれており、暇を持て余した客同士が自然と対局を始める。長考する客もいれば、周りで観戦しながら口を挟む客もいて、ちょっとした人だかりができることもある。正月らしいのんびりとした時間の過ごし方の一つになっている。
花札・トランプ
- 花札
- トランプ
- こいこい
女将に頼むと、花札やトランプを貸してもらえる。花札は「こいこい」で盛り上がることが多く、トランプは大人数でできる遊びとして客同士の交流のきっかけにもなる。掘り炬燵を囲んで、笑い声混じりに勝負が続くこともしばしばある。
雑誌
- 雑誌
- 回し読み
- 本
- 漫画
客が持ち込んだ週刊誌や文庫本は、宿の中で自然と回し読みされていく。読み終えたものを広間に置いていく客もおり、暇な時間に手に取れるようになっている。大雪で足止めされた客にとっては、貴重な暇つぶしの一つになっている。
おせちと雑煮
- おせち
- 雑煮
- 黒豆
- 数の子
大晦日から正月にかけて、宿ではおせちと雑煮が振る舞われる。煮しめや黒豆、数の子、紅白かまぼこなどが少しずつ盛られ、雑煮はすまし仕立てで野菜が多めに入っている。地元らしい素朴な味付けで、都会のものとは違うと語る客もいる。
漬物・保存食
- 漬物
- すんき漬け
- 野沢菜
- 凍み豆腐
日が経つにつれて新鮮な食材が減っていくと、食卓にはすんき漬けや野沢菜漬けといった漬物、凍み豆腐などの保存食が増えていく。どれも冬場の保存を前提に作られたもので、質素ながらも滋味深い味わいがあると評判になっている。
川魚と猪鍋
- 川魚
- 塩焼き
- 甘露煮
- 猪鍋
近くの川で獲れた川魚は塩焼きや甘露煮にして出される。寒さが厳しい晩には、猪鍋が振る舞われることもあり、体の芯から温まると客に喜ばれている。山あいの宿らしい、素朴で力強い料理として親しまれている。
テレビの映り
- 砂嵐
- 映り
- アンテナ
天候が悪いと、白黒テレビの映りはひどく乱れ、砂嵐混じりの画面になることがある。宿の屋根に立てられたアンテナの向きを主人が直しに行くこともあるが、豪雪の日はそれもままならない。客たちは画面に目を凝らしながら、聞こえる音声だけを頼りに番組を追うこともある。
電報と郵便
- 電報
- 郵便
- 配達
急ぎの用件は電報で伝えられるが、豪雪で配達員が動けず、届くまでに時間がかかることがある。年賀状などの郵便物も同様に遅れがちで、正月らしい賑わいの一方、外部との連絡が思うようにいかないもどかしさを客は感じている。
ニコンF
- ニコンF
- 一眼レフ
- 露出計
昭和34年に発売されたニコンFは、国産初の本格的な一眼レフカメラとして知られ、プロの写真家の間で定番の機材になっていった。露出計を別途取り付けて使うことが多く、扱いにはある程度の知識が求められる。当時としては高価な部類のカメラで、持っているだけで注目されることもある。
日本シリーズ
- 日本シリーズ
- 東映
- 阪神
この年の秋に行われた日本シリーズでは、東映フライヤーズが阪神タイガースを四勝二敗一分で下して日本一となった。年末になっても、この結果は野球好きの間で話題に上ることがあり、宿の茶の間でも贔屓のチームを巡って話が弾むことがある。
下宿と帰省
- 下宿
- 帰省
- 冬休み
松本で下宿暮らしをしている学生の多くは、冬休みになると実家へ帰省する。今回のように、帰省の途中や、あるいは息抜きの一人旅の最中に大雪で足止めされる学生も珍しくない。下宿先の大家に「正月は実家に帰る」と伝えて出てきた者も多い。
専攻・卒論
- 文理学部
- 日本史学
- 卒論
大学の文理学部には様々な専攻があり、日本史学を専攻する学生も在籍している。学年が上がると卒業論文の準備に追われるようになり、正月休みの間に資料を読み進めておきたいと考える学生も少なくない。
平湯温泉
- 岐阜県側
- 平湯
安房峠を越えた岐阜県側にある温泉地で、古くから湯治場として知られている。冬場は峠が閉ざされるため、長野県側からの行き来はできず、岐阜側からのアクセスに限られる。同じ峠を挟んだ温泉地でありながら、冬の間は行き来が絶たれた別世界のような存在になる。
上高地・中ノ湯
- 上高地
- 中ノ湯
- 沢渡
安房峠の長野県側、松本から沢渡を経て向かう先に上高地や中ノ湯といった温泉地が点在している。夏は登山客で賑わうが、冬場は静まり返り、雪に閉ざされた一軒宿がぽつりぽつりと営業を続けているだけになる。宿はこの長野側の道沿いに位置している。