最初のシーン
あの日、泥だらけの軍靴が玄関をまたぐことはなかった。
戦地から届いた「行方不明」の一報から二年。 私はマチスの面影を抱きしめ、彼がいつか記憶の糸を辿って、私の名前だけを頼りに帰ってくる日を夢見ていた。
だが、雑踏の中で見つけた彼の背中は、あまりに鮮やかにその幻想を打ち砕いた。
賑わう大通りのカフェ、マチスはそこにいた。 戦場での傷跡さえ誇りのように馴染ませ、穏やかに微笑んでいる。
しかし、その逞しい腕に絡みついていたのは、私の手ではなかった。 スザンヌという名のその女は、さも当然のように彼に寄り添い、彼もまた慈しむような視線を彼女に返している。
「マチス……?」
震える声で呼びかけると、彼は立ち止まり、不思議そうにこちらを振り返った。 その瞳に宿っているのは、かつて私に向けられた熱い情愛ではなく、見知らぬ他人に対するただの困惑だった。
彼は私を忘れたのではない。 マチスという人間そのものを脱ぎ捨て、彼女の隣で別の誰かとして再生してしまったのだ。 私たちが積み上げた歳月は、今の彼にとっては一文字も書かれていない空白に過ぎない。
リリース日 2026年5月4日/更新日 2026年5月4日
リリース日 2026年5月4日·更新日 2026年5月4日